佳書抄録

「ひたすら鍵山掃除道」(1)

阿部 豊・講演録

 私は、昭和13年愛知県新城市生まれ、81歳です。地元の高校を卒業し、東海銀行に就職しました。東京本部7年、厚木支店次長などを経て、本部総務の株主総会担当となりました。ヤクザな仕事で自分には荷が重いと上司に申告したため、接待用倶楽部に出向したのです。43歳の時でした。ゴルフや水泳に熱中、「小人閑居すれば不善を為す」ですね。
 7年在籍したころ、先輩が社長をしていたノンバンクに転職しましたが、バブルが弾け倒産しました。私は人員整理でカラオケ店に出され、新規出店の店長候補で朝まで勤めました。3か月経ったころ、家内がストレスで倒れました。そこで、まともな仕事に就こうと、銀行を退職し、住宅ローン保証会社に拾ってもらいました。53歳の時でした。

イエローハットに入社

 銀行の先輩二宮洋さんがイエローハットの社長になられ、誘われて平成13年63歳で入社しました。鍵山相談役から、トイレ掃除をご指導頂きました。やる氣があるのかなとご覧になっていたと思いますが、土日も関係なくやっていたら、ある日「阿部さん、トイレはもういいから、一緒に外掃除をしましょう」とお誘いがありました。
 それからマンツーマンでご指導いただきました。道路においてあるゴミ袋の中まで見て、分別されていない袋は中を広げて、燃えるゴミや、ビン、缶などを仕分けして、綺麗におき直すのです。毎朝50~60人で、山手通りと、目黒川沿い、大体2㎞を掃除しました。草取りも教えてもらいました。相談役の草取りは見事です。根っこを綺麗に揃えて並べるのです。道路の雑草は、ゴミがそこに溜まりますから、徹底的に取りました。

「日本を美しくする会」事務局へ

 3年4か月総務を担当後、平成17年「日本を美しくする会」の事務局担当になりました。当時、任意団体でしたので、2年後にNPO法人、更に2年9か月後に認定NPO法人と、矢継ぎ早に認証を取りました。また、文科省後援も取得しました。イエローハットの業績が悪くなり、本社ビルも売却となり、池尻のマンションに引っ越しました。相談役のスケジュール管理、講演準備、「日本を美しくする会」事務局や会計業務もあり益々忙しくなりました。

菅刈公園のお掃除

 元本社裏の目黒川沿いに菅刈公園があり、本社移転後も相談役と2人で毎日掃除を続けました。落ち葉を木枠に入れ、生ごみを混ぜて堆肥を作りました。全国からの参加者があり、「お掃除のメッカ」と言われるようになりました。

鍵山相談役が病に倒れる

 平成27年10月16日、脳梗塞を発病されました。出張後、事務所のお席に着かれて間もなく、「阿部さん、ちょっと手が痺れる」と言われたのです。これは大変だと、救急車を呼びました。車内で酸素マスクをしたまま、「この救急車は何処から来たのか聞いてほしい」と仰るのです。目黒の消防署だと聞いて、後でお礼に行きました。相談役は、こんな状態でも、そこまで氣を遣うお方です。

鍵山相談役のエピソード

 相談役は、結婚して入ったアパートで毎朝植木手入れとお掃除をされたことから、家主様が所有のビルを、驚くばかりの値段でお売り頂きました。また、昭和36年の創業時、自転車1台で行商されていた時、元勤務会社に嫌がらせを受けて、商品の仕入れが出来なかったのです。そのとき、京都の個人商店が扱っていたハンドルカバーに出会い、夜の赤坂や銀座で客待ちをする運転手さんに見本を見せながら売り歩いたそうです。ハンドルカバーとビルの購入が、創業時の一番の助けになったと聞きます。いつまでもご恩を大切にされて、お二方には、時々お届け物をされています。
 物流センターの障害者の人たちは、相談役がお見えになると、抱きついて喜びます。パートの方々にも年に一回は慰労会をされました。誰も分け隔てなく、特に弱者に対する配慮は素晴らしいです。だけど、外と内は違いますよ。内に対しては厳しい。そうでなければ、上場会社は出来ませんよ。(つづく)

人生の師 鍵山相談役と (2010年ころ)