私の掃除履歴書

ゴミゼロへの挑戦(1)

東京都 鈴木 武
『一日一センチの改革』致知出版社

 サラリーマンだった私は、「ダメ社員」としてあちこちの職場で苦い経験を重ね、辞職も考えていました。53歳で、当時会社でも社会でも関心のなかった「ゴミ問題」を志願し、新しい挑戦を始めました。
 それは、上から指示されたわけでもない、誰の理解も協力もない仕事でしたが、定年退職のときには、大変大きな成果が出ました。
 大会社の小さな一個人でも、強い思いを持ってすれば、大きなトラブルもなくゴミを99%資源化できた例は、多くの方の参考になるのではないかと思います。

「窓際族」の悲しさにもめげず
 私は1942年生まれ、1961年高卒で松下電器産業に入社し、松下通信工業に配属されました。
 1985年43歳、役職は主任でした。上司にたくさんの「バツ」をもらい、いわゆる窓際社員として厳しい状況にありました。大きな「バツ」は、2回の「転勤お断り」、「上司とのトラブル」、「出世希望せず」の4つです。「このままでは身がもたない」と、会社を辞めることも考えましたが、家族のことを思うと決断できませんでした。
 人生相談を受けました。「祈りなさい、自分の基軸を宇宙に願いなさい」これが「お役に立ちなさい」と聞こえた気がして、フッと「生かされた」と感じました。そして、「3年間耐えよう。それでも変わらないときは潔く辞めよう」と腹を決めました。
 昭和60年代、日本は「バブル景気」で会社も絶好調でした。1986年異動希望の調査が行われ、私は希望を出し、翌年原価管理の業務に移りました。仕事に打ち込みましたが、工場拡充に伴っての転勤が嫌で、他部署への異動を考えて環境部門を見つけました。

古作業服をスリランカに送る
 1991年、会社の作業服が切り替わりました。段ボール箱2つの、未使用の旧作業服を見つけました。誰に聞いてもその使い道を知りません。日本赤十字や政府などに問い合わせても、引き取り手は見つかりません。
 スリランカに従業員千人の工場を持つAさんと話すと、彼の会社の現地幹部がスリランカ政府とつながりがあると教えられ、その幹部のおかげで駐日スリランカ大使を紹介してもらいました。
 大使に会うと、「すべてお引き受けします」との返事。早速組合に労使協議会のテーマにあげてもらい、その結果、組合側が古い作業服の回収と洗濯をおこなう、会社側が横浜港に送る費用を持つ、そしてスリランカ政府が本国までの輸送を行う、という話になりました。2つの段ボール箱を見つけて10か月、7300着の古作業服を「活かす」話がまとまりました。
 駐日大使が表彰状を持ってわが社にやってきました。宛名は松下通信工業社長でした。(写真)
 私は同席を丁重に断り、私の名前を出すことも辞退したのですが…大使が事情を話すと、社長は「鈴木って誰だ? うちの社員か?」と言ったそうです。

「片方の眉毛を剃れ」
 この一件は私のパスポートになり、1993年「環境部門に行きたい」希望が実現しました。当時の環境部門は、危険、汚い、臭い「3K」の典型職種で、「ゴミ」は、社内で最下位の扱いのテーマでした。異動後しばらくまともな仕事もなく、社外のボランティアでエネルギーを発散していました。
 1995年環境部門に来た新役員に、「排出物削減をやらせてください。失敗したら頭を丸めます」と頭を下げました。すると彼は、「君はハゲているからダメだ。失敗したら片方の眉毛を剃れ」。
 1995年、53(ゴミ)の歳に新たな人生が始まったのです。

「三つの改革」を実行
 新役員の言葉は「渡りに船」でした。私のゴミ問題との格闘が始まりました。「三つの改革」をやろうと決めました。
 第一 ゴミを産廃業者に委託処分するのではなく、リサイクル業者を探して「資源」として活かす。
 第二 排出物処理の仕事を、現場部門からわれわれ環境部門に替えてもらう。
 第三 頼りになる助っ人を探す。私一人では手が回らない。
 これら3つが奇跡的に達成でき、そして私は1996年4月1日付で、正式に「廃棄物処理担当」のポストに就き、条件は揃いました。


「環境ISO」が後押し
 1996年発効の環境マネジメントシステムISO14001の登場は、大きな後押しとなりました。会社は事業や排出物処理のシステムを、よりオープンにしていかなければなりません。ISOは、産廃業者の説得に「錦の御旗」となって大きな力を発揮しましたし、私はこれに合わせた企業の体制をつくるべきだと考えました。


紙ごみの資源化からスタート
 全社の排出物を調べると、紙、廃プラスチック、金属の順で、これら3種類を合わせると、全体の8割を超えていました。まず、「紙ゴミ」リサイクルを検討しました。
 従業員は、紙くずは丸めて机の下のゴミ箱に捨て、それをダストシュートに入れ、すべてゴミになっていました。そこで私は、各机に個人用リサイクルボックスをおき、コピー用紙などが溜まったら、ひもで縛って分別ボックスに持っていくやり方にしました。


「ゴミ」から「資源」への発想転換
 私たちは、排出物を「いらないもの」として、業者にお金を払い、埋めたり焼いたりしてきました。大きな無駄です。
 私は、紙に加え金属資源、またビン・缶は回収し購入先に戻す仕組みを考えました。食堂で出た生ゴミは堆肥にし、農家に無償で差し上げました。発泡スチロールや輸送用パレットは、無償提供するルートを開拓しました。最後に残ったゴミも、「サーマル燃料」としてお金をかけても資源化しようとしました。社内で出る排出物はすべて資源だという考えで、取り組みました。

分別すれば商品価値が高まる
 「金属置き場」の実態は「ゴミ捨て場」でした。業者は、金属以外のゴミも持ち帰らなければなりません。私はリサイクル業者に、運搬代に加え、解体費、分別費を支払うことにしました。ただし、鉄やステンレスなどは資源で買い取ってもらうという条件です。金属ゴミが資源としてお金を生むようになりました。
 紙やガラス、プラスチックなども、精度の高い分別システムを整えていったので、他の種類のゴミが混じることが少なくなり、その結果業者側の回収・分別にかかる手間が減りました。このように分別を徹底すると、業者は喜び、リサイクル率は向上してゴミは減り、コストダウンもできました。
 こうしたノウハウを積み上げ、「資源リサイクルルート」をつくりました。細かく分類し、直接取引業者−運搬業者−一時受入業者−最終受入業者の、リサイクルの道筋を整えたのです。このことにより、社内で出た排出物の流れが、下流まで「見える化」されました。
 大事なことは、リサイクル業者の選定から運搬方法などのすべてを、私自身が現地に足を運び、見て確かめたことです。
 1996年ころから講演依頼が来るようになりました。一介の窓際社員でしたので、松下社員であることを伏せていたのですが、聴衆に受けたらしく何度も依頼されるようになりました。
 この話がテレビ取材され、1996年12月18日、NHKの「おはよう日本」で全国放送されました。噂を聞いた役員の一人が、朝一番電話をしてきました。3Kの典型環境部門が取り上げられたので、とても驚いたらしいです。
 これをきっかけに、当社の排出物処理の取り組みに、見学申し込みが殺到しました。(つづく)

改善前の「ゴミ置き場」
改善後の「資料置き場」