「きれい好き」が
 人生を変えた(1)

多賀城掃除に学ぶ会 小畑 貞雄

 私は、何をしても人より劣る人生を送ってきました。吃音がひどく、体が小さくて弱く…。しかし、「きれい好き」だけが取り柄だった私は、39歳の時に掃除に出逢って、人生が根底から変わりました。

私の略歴

 私は1956年(昭和31)、仙台の農家の長男に生まれ、親戚同居の15人の生活でした。暮らしは楽ではなく、朝起きると皆畑仕事に出かけていました。
 小学校の頃から妹2人の世話をし、炊事、洗濯、繕いから、風呂焚き、掃除、鶏や羊のエサやりなどをしていました。家族が喜んでくれるのが嬉しかったのです。親から言われたり、躾もない大人しい家族でした。
 1973年(昭和48)、18歳で高校を卒業し、親戚のすすめで自衛隊に入り、6年勤務。中学時代の交通事故の後遺症がありましたが、自衛隊の規則正しい規律と訓練で、入隊半年で体力に自信が持てるようになりました。航空隊通信士として英語の習得が必要でしたので、夜間の大学で学びました。順調でしたが、将来への不安と民間会社へのあこがれがつのって除隊しました。
 木材会社に13年勤めましたが、1994年(平成6)39歳の時に突然退職し、蒲鉾会社に就職しました。このころ、「人生をいかに生きるか」と悩む日々で、心の支えを求めて本を読みあさりました。そんなときに偶然、NHKのラジオ深夜便「こころの時代」で、鍵山秀三郎氏の話を耳にしたのです。

20歳のころ、航空自衛官時代

鍵山氏との出会い

 会社社長の鍵山氏が、トイレ掃除のことばかり話すので不思議に思いましたが、再放送に耳を傾けると、心に染み入りました。それは、木材会社での辛い経験と自衛隊除隊への後悔から、私はもっとずるく生きてもいいのではないか、と思っていたことがあると思います。そうではなく、鍵山氏の真摯な「凡事徹底」の生き方に感銘を受け、「この人についていこう」と決めました。
 いてもたってもおられなくなった私は、翌日近くのイエローハットを訪れました。店内は整然として従業員の言葉使いも丁寧で、もちろんトイレは磨きあげられていました。簡単な買物をして、レジで何気なく「私は鍵山社長のファンです」と言いました。
 まもなく、ご本人のサイン入りの本が4冊自宅に届いたのには、本当に驚きました。その中の一冊『日々これ掃除』(致知出版社)にあった『聖書』の一節が私の人生を変えました。
 「汝の行動は汝の預言者なり」
 取り柄のない私でもできること、それがトイレ掃除でした。この本は擦り切れるまで読み、ノートも作りましたが、後の大震災の津波で流されました。

家の前の公園から始める

 1995年(平成7)、40歳。まず、家の前の緑地公園から始めました。公園管理者に許可を貰いに行くと、「いくら欲しいんだ」と言われました。公園にいた老人からは、「いくらもらってるんだ」「ザルで水をすくうようなもんだ」とか、「掃除夫の仕事を奪っている」と言われました。
 それだけではありません。新聞で紹介されると、やっかみが増え、親に電話する人がいたり、ついには親戚からは「やめてくれ」と言われました。
 43歳のとき、販路を開拓したりして貢献していた蒲鉾会社から、突然解雇を言い渡されました。「なぜ、公園の掃除がいけないのか、なぜ会社をやめさせられなければならないのか」と、わけがわかりませんでした。しかし自分が試されているのだと思って、掃除だけは黙って続けました。

「釣りがね」を磨く

 私の趣味はバドミントンで、今も週に3回は楽しんでいます。コートのある塩竃市立第三中学校のトイレは汚くて、生徒が可哀そうでした。掃除の申し出が断られたため、教頭先生に「1回でいいから」と頼んでやりました。教頭先生はその様子を見て感動され、その後「お掃除する時は、私に電話して」と言われるようになりました。2007年(平成19)、52歳のときのことでした。
 1回あたり5~7時間、半年続けたら、「学校の開いている時なら、いつでもいいよ」といわれるようになりました。2年半で250回トイレ掃除をし、この経験で自信がつきました。「他でもやってみたい」と思い、同級生が副教育長をしていた多賀城市の東小学校に頼んで掃除ができるようになりました。
 ここのトイレの「釣りがね」はひどかったです。「このままにしておけない。やるのはお前しかいない」という声がしました。そこで、1個ずつ「釣りがね」を磨きはじめました。
 外側の錆は、割合簡単に落ちますが、問題は内側です。金づちで錆を叩き落とし、ドライバーとやすりで内側をこすりました。1個当たり約4時間、ピカピカになるまで磨きました。5個もすると、慣れてきました。8カ月かけて、この学校の「釣りがね」30個を磨き終わりました。その後、他の学校の「釣りがね」も磨き、その数は13年間で150個を超えます。

磨く前
磨いた後はピカピカに光っています。

「釣りがね」は私

 トイレに釣りがねを返し、排水口を掃除して水を流すと、水が渦をまきながら、ごーっと流れます。釣りがねが「うれしいうれしい」と言ってくれます。
 一人で掃除をしていると、いくらでも手抜きができます。けれども、手抜きをするとすごく後味が悪いです。ごみ拾いも同じです。落ちているごみを、見て見ないふりをして通り過ぎたときは気持ちが悪く、もどって拾いました。そうすると気持ちがよくなります。
 汚れて錆びた釣りがねは、実は私だったんですね。ここで目をそむければ、私はいつまでも弱いままです。しかし完璧をめざしてやりきることが大切で、それは自分が決めることなのだ、ということを学びました。私は、生活を掃除最優先にするようにしてから、心が楽になりました。そして釣りがね磨きをコツコツ続けたおかげで、少しずつ粘り強さをいただきました。

総合体育館のトイレ掃除

 多賀城市では、災害発生時には総合体育館が避難所になることは分かっていました。そこで、2003年(平成15)から週一回、体育館のトイレ掃除を始めました。また、何が起きても大丈夫なように、掃除道具を15セット用意していました。
 2011年(平成23)3月11日、東日本大震災発生。自宅は津波で被災し、自分の車が流されるのを見ました。掃除道具もすべて流されました。2日後に家族の無事が確認でき、そこで私は強い使命感を感じ、避難所のトイレ掃除に立ち上がりました。    

(つづく)
(985-0832 多賀城市大代1-13-3)