静岡便教会十年の歩み(2) 東日本大震災石巻支援活動

静岡便教会 代表 柿島 由和

静岡便教会立上げ4か月後の2011年(平成23)3月11日、東日本大震災が発生しました。支援活動は今までに11回行いました。若者の学びは大きく、小学生の時から10回参加した男子が大学生になりました。

復興支援に立ち上がる

当時中部ブロック長竹中義雄様が「東日本救援隊」を立ち上げたと聞いて、5月の大型連休に宮城県石巻市へ1人で向かいました。竹中様たちは、石巻専修大学のキャンパスに自家発電の電気が通るテントを設営し、道具や食料を揃えておられました。段ボールに「私たちはお客ではありません。参加者はトイレ掃除をしてもらいます」と書かれていました。仮設トイレの便器にこびりついた大便を、竹の棒で突いて落としました。ビールケースを針金で結び、上にベニヤ板を敷き並べ、その上で寝袋で休みました。

車で雄勝町立浜へ向かいました。海に浮かんだ家、屋根の上に乗る自動車・・・悪夢のような光景が延々・・・言葉がありません。太い柱や海水を吸った畳等々足の踏み場もない惨状で、気が遠くなるような活動でした。全国からの同志と無我夢中で片付けました。ヤッケにゴーグル、防塵マスク、長靴の底に金属のソールを入れての作業でした。

3日間で私の中に眠っていた感性が揺さぶられました。「生きていることは当たり前ではない」、もっと多くの人に知ってほしい、特に若い人に実際に体験してほしいと思いました。

2回目は10月、後輩、富士市立高校生徒会長の3人で、東京掃除に学ぶ会の活動に参加。山形の会と合流し、家財運び出しと土砂掻き出しを行いました。

フジザクラと石碑「絆」

2012年(平成24)3月の3回目からは、静岡便教会主催の活動を始めました。貸し切りバスを利用した2泊3日です。2013年、神社ほか石巻市内に「フジザクラ」の苗木40本を植えました。今は大きくなり、春に花が咲きます。

以下、参加者2人の感想です。

市立富士南小学校 小野誠校長
2014年8月参加。

仮設住宅居住者のお話

  • 津波が来ると言われて20分間。
      「逃げろ」と言われて、素直に逃げた人が助かった。
  • 大津波は一晩ですべてを持ち去った。あの一晩を思えば、どんな苦しいことも頑張れる。
  • 4日目家族と会い、抱き合って泣いた。あんなことでも無ければ抱き合うことはない。
  • 3年半経っても、忘れていたことが蘇る。最近睡眠薬をようやく止められた。
  • ボランティア、自衛隊の方々には、大変お世話になった。

立浜ホタテ養殖組合長のお話

  • 1か月は自暴自棄で、援助を素直に受け入れることができなかった。10日目。水無し、食事無し、笑顔無し、会話無し、歌無し、備蓄無し。流れてきた缶詰などを食べた。「明日は、どうすっぺ!?」
  • いつまでもこんなことではいけない、と思うようになった。
  • 漁師は18人いたが、6人が去る。残された者には海しかない。6か月後漁場が再開し、7~8割元気を取り戻せた。

石巻市立大川小学校

時間が止まった別世界でした。午後2時46分地震発生、その51分後に大津波が来ました。河口から5㎞、校庭に避難した児童108名中74名、教職員11名中10名、バス運転手が死亡。

小野校長の感想まとめ

  • どうしようもない辛い思いをお話し頂いた。貴重なお話だった。これをどう咀嚼し、どうこれからの生き方に生かしていくか、大きな宿題を頂いた。
  • 「当たり前であることの有り難さ」を実感した。「命があること」「家族が居ること」「雨露がしのげる家があること」「電気が使えること」の4つである。
  • 8月29日、全校朝礼で児童969名に話しました。「命がある、今、生きているということを、皆さん、強く強く意識してください。当たり前過ぎて、普段は意識しないことだけれど、本当に有難いことなのです」

女子大生の体験発表

2018年、高校生2名、大学生1名、中学教諭1名の4名が、「東日本大震災復興支援活動参加者体験発表」で力強く発表し、約300名の会場は感動の渦に包まれました。次は大学看護学部4年生の教え子の発表です。

「私は看護師の国家試験の勉強をしています。被災地支援活動に3度参加しました。きっかけは、『被災地でボランティアをしてみないか? 行けば考え方が変わり、人生が変わるきっかけになると思うよ』と、高校時代の恩師柿島先生にお誘いを受けたからです。先生のお陰で、苦手だった数学が徐々に好きになりました。人としてどう生きるかなど、道徳の心もたくさん教えてくださいました。先生は朝学校の掃除をしており、いつも満面の笑みで『おはよう。今日も元気かな。一日頑張ろうね! 試合お疲れ様』などと言って下さり、その度に嬉しい気持ちになりました。それまでの私は、人のために何かすることはありませんでしたが、尊敬する先生の誘いで友人と参加しました。先生がおっしゃった通り、この活動は私の人生を変える経験となりました。

私が行ったのは震災から3年半の時で、がれきの撤去などは進んでおり、3回目の時は、被害を受けた建物がリニューアルされてきたり、徐々に活気が戻りかけていました。しかし、震災の爪痕を感じさせるところも多々ありました。

仮設住宅居住者のお話を聞き、キッチン・トイレの清掃、民宿周辺のゴミ拾い、ホタテの殻刺し作業、大川小学校訪問など、様々な活動をしました。仮設住宅は、人々が隣同士で生活することにより、ストレスを感じるという声を聴いたり、集会場のキッチンは大勢の人が使うため、予想以上の汚れでした。

私は、大川小の慰霊碑に刻まれた犠牲者の名前を見て、当たり前のように感じている毎日、時間、そして命は、決して当たり前ではないのだ、震災で生きることを途絶されてしまった人が生きたかった毎日であると強く思いました。仮設住宅などで、大変な思いで懸命に生きている方も大勢いらっしゃいます。しかし、被災者の方々は、私が思っていたよりずっと強く前を向いて生きていらっしゃいました。『遠くから来てくれてありがとう』と笑顔を見せ、手作りのキーホルダーを下さったり、東北の方々の温かさを強く感じて、私のほうが元気をもらいました。

人の記憶は、新しいことが起こると上書きされます。被災地の方々に対してできることは、ボランティア活動をすることだけでなく、『震災のことを風化させず、伝え続けること』だと考えます。被災者の方々が口を揃えておっしゃった『逃げたら絶対に戻るな』『海抜や避難場所を確認しておくこと』などを、伝えて実践に移すこと、そして、『大震災のことを忘れない』ことこそが、私にできる最大のことではないかと思います。支援活動に参加して、本当に貴重な経験ができました。

最後に、私が看護師になりたいと思ったきっかけは、慢性疾患の祖父と関わる医療・福祉従事者を見て、身体に困難を抱える人の役に立ちたいと思ったことです。『寄り添う』と言葉でいうのは簡単ですが、実際には難しいことも学びました。しかし、私の声掛けや看護で、患者さんに良い反応が得られたときは、とてもやりがいを感じます。私は、患者さん一人ひとりの体験や語りを大切にする看護師になりたいと思います。まだまだ未熟ですが、この活動で得たことを忘れず、生かされている命に感謝しながら、精一杯努力していきたいです」

民宿「めぐろ」ご夫妻を囲み