私の掃除履歴書

おいしさと安全を求めて60年

     精華堂あられ総本舗
      会長 清水 精二

 若いころ食の安全に問題意識を持ち、お父様のあられ会社を継いで、安全な米と素材を使ったあられ製造にこだわってきた60年を、清水精二さん(85)に聞きました。

疎開と叔母の死
 小学校1年のときに、家族で叔父叔母のいる山梨県に疎開しました。それは東京大空襲の前日で、遅れていたら命がなかったかもしれません。父らはまもなく帰りましたが、私一人だけ6年間いました。疎開児童はいじめられたりすることが多いようですが、従兄がいたせいでそんなこともなく、田畑を駆け回り、自然のなかで楽しく過ごしました。
 その後叔母が東京の私たちのところに来たときに、話の内容がおかしいなと思っていたのですが、帰ってまもなくしてガンで亡くなりました。私が28歳のときです。
 ガンの原因はよくわかりませんが、昔は防護マスクもなく農薬を散布しており、またそのようにして作ったお米が食卓に出ていました。有害な農薬やその作物が、大好きだった叔母の命を奪ったのではないかとの疑念が消えず、食品のあり方に強い問題意識を持ちました。


「本当のおいしさ」=「安心・安全」
 21歳のとき、母が病弱なため、大学を卒業したらおかき製造の家業を継ぐことになりました。私は、その条件として、父に仕事中は禁煙する約束を取りつけました。そしてお店を会社組織にし、父が社長、私が専務となり、お客様の声が、私を通して工場や商品に反映できるようになりました。
 私はこの期間のおよそ3年間、あられ・おかきに最も合うお米や素材を求めて、北は北海道から沖縄までの全国の農家を訪ね、作物はもちろん、栽培方法の細部まで伺いました。そんなある日、宮城県の農家でいただいた炊き立てのご飯は、過去に食べたことのないほどのおいしさでした。聞けば、その米は農家ご一家が自分たちの食用として栽培した、無農薬のお米だということでした。
 「これだ!」 私が探し続けていたものでした。惜別した叔母への思いの結果と同じ答えでした。
 1979年、41歳で代表取締役になりました。若いときに抱いた、安心安全な食品つくりの志を経営に活かそうとしました。1991年、足立区の工場が手狭になった際に、もち米の横綱と呼ばれる「みやこがね」の産地で米どころの宮城県に工場を移転しました。


木村秋則さんに出会う
 1998年、青森県のリンゴ農家木村秋則さんに出会いました。木村さんは無農薬・無肥料の「奇跡のリンゴ」の栽培に成功した方ですが、当時は有名になる前でした。
 私は、宮城工場で自然栽培のお米を調達したいと思って、地元の加美よつば農協での講演をお願いし、農家さん中心の35名に聞いてもらいました。
 「肥料・農薬・除草剤なしでお米がとれるの?」と多くの方が驚きました。木村さんは「田んぼは、一遍ではなく徐々に変えていってください」と答えました。
 皆さん1年目、2年目の収穫は半減しましたが、頑張って続けてくださいました。3年目4年目で我慢しきれず、元の農法に戻った方も多くいました。木村さんは「途中で他人のアドバイスを聞くとおかしくなります。きちっと木村式自然栽培を守ればよいです」と。


宮城工場のJAS認定
 お米や味付け素材などの安全・安心化を、本格的に進めました。2001年宮城工場は有機JAS認定工場に認定されました。
 米は、農薬、化学肥料の使用はもちろんなく、「有機認定証明書」や「栽培履歴書」など、田んぼの履歴書があります。国産もち米100%のJAS認定を受けた国内に1社のあられメーカーです。
 味付け素材は、醤油は、国産の小麦と丸大豆からつくった無添加。海苔は、九州産。砂糖は、サトウキビのしぼり汁を蒸留させた有機。植物油は、無農薬で圧搾法で絞ったもの。塩は、ミネラル豊富な大島の天海塩。胡麻や唐辛子なども味と安全にこだわっています。
 多くの表彰をいただきました。

全国菓子博覧会厚労大臣賞(2013年)

一倉経営学に学ぶ
 59歳のころある講演をのぞいたところ、とても熱気がありました。社長専門の経営コンサルタント一倉定氏でした。一倉経営学を学んだ友人の会社が発展したのを見て、興味を持ち、セミナーを受講しました。1年で10回くらい、毎回あるテーマのもと、座学中心の研修がありました。経営に悩む社長や特徴的な会社も多く、掃除に学ぶ会の人もいました。
 2年目のはじめに、10日間近く缶詰めの合宿がありました。そのときは沖縄でしたが、海外で開かれることもあったようです。人数も50名以上で、料金は高かったですが、会社がよくなることを考えれば、その価値のある研修でした。
 一倉先生は、「ここで一生つき合えるような良い友人をつくれ」といわれました。きびしく指導された人もいたようです。
 勉強会「一倉会」の皆様が、わが社の見学に見えたとき、環境整備が徹底していたことと、原料から副材料まですべて無農薬無添加であることに対して、「感動」と仰せくださいました。
 一倉先生は、「環境整備こそすべての活動の原点である」「環境整備のないところに、会社の発展はない。環境整備のないところに、社会秩序も住みよい世の中も、いや国家の繁栄さえ絶対にありえない」といわれるほど、環境整備に強い信念を持っておられました。
 指導を受け、環境整備について、「たとえ仕事に差し支えてもよい」という目標を立てている会社もありました。


経営計画書
 1年間のセミナーで学んだことの集大成が、経営計画書です。私はこれを、まるまる一か月くらい缶詰めになってつくりました。完成後、一倉先生に送りました。
 経営計画書は、会社の目標や計画を明確化し共有することで、自分も社員も力が出ます。これがあってこそ、会社は継続して発展できます。会社に計画書がないのはおかしいくらいに思います。


掃除に学ぶ会での活動
 食品業ですので、掃除は以前からやっておりました。25年前鍵山秀三郎様に出会い、深川掃除に学ぶ会を立ち上げ、世田谷小学校をはじめとして、学校と街頭清掃に邁進してまいりました。
 今は朝一番近所の街頭を1時間掃除し、お店を1時間磨き、9時半に開店します。


私の夢
 日本の有機食品市場を広げていくことです。現在自然栽培の米は、全体のわずか0.001%です。有機農産物の良さは少しずつ認知されてきていますが、有機加工食品への理解がまだ十分ではありません。
 2011年NPO法人「木村秋則自然栽培に学ぶ会」設立。自然栽培に取り組む生産者を増やし、消費者にそれを知ってもらいたいと、田植えや稲刈り体験、自然栽培の野菜教室、ホタル観賞会などを開いています。約200名の会員がいます。毎年秋の稲刈りは工場見学とセットで計画しています。

自然栽培米 ササシグレ
(長沼太一・一弥さん)


【資料】
あられの由来 精華堂パンフより
 奈良時代、秋に五穀豊穣を祈ってほしたもち米を土皿であぶって食べたのが始まりといわれます。平安時代は「鏡餅」をかき砕いてつくったため、「かきもち」といわれるようになりました。戦国時代は保存食としても重宝されました。江戸時代、商品として庶民も気軽に食べられるようになりました。その後、海苔、大豆、海老などを混ぜた製品がつくられるようになりました。
精華堂あられ総本舗
 創業1935年(昭和10)、清水六蔵創業。東京大空襲を経て、1951年あられ製造を本格再開。従業員45名。販売先は生協、菓子専門店など。
(135-0024東京都江東区清澄3丁目10-5)